
近代に一度死んだはずの「郡」:その不可解な延命
日本の住所において、県の次、町村の前に堂々と鎮座する「郡」。
日本で最も有名な避暑地「軽井沢町」も、正式な住所は「長野県北佐久郡軽井沢町」です。
しかし、我々は郡役所に住民票を取りに行くこともなければ、郡長に陳情することもあり得ません。なぜなら、郡という行政組織は今から約100年も前に一度死んでいるからです。
行政界の「中間管理職」としての挫折
郡の歴史は大宝律令にまで遡りますが、現在に繋がる形が整ったのは1878年(明治11年)の郡区町村編成法です。
この時、政府は「県」と「町村」の間に、現場監督としての「郡役所」を設置し、官選の「郡長」を置きました。
郡の役割は、県が直接扱うには細かすぎ、町村が担うには荷が重い事務を処理する、いわば行政の「中間管理職」でした。しかし、この仕組みは驚くほど早く行き詰まります。
交通や通信の発達により、県が直接町村を指導できるようになったことで、中間に組織を挟むことの事務的遅滞と、
二重の維持コストが批判の的となったのです。結果、1921年には郡制廃止法が可決。1923年に郡会(議会)が消え、1926年には郡役所もこの世から
消え去りました。
なぜ「幽霊」として存続しているのか
では、なぜ組織が消えてから100年経った今も、住所の中にその名が残っているのでしょうか。そこにあるのは、崇高な理念ではなく「事務作業の絶望的な面倒くささ」です。
郡を完全に廃止し、住所からその文字を抹消しようとすれば、不動産登記、戸籍、免許証、ありとあらゆる公文書の書き換えが必要になります。その膨大なコストと手間をかけてまで「郡」の二文字を消し去るメリットは、行政にはありませんでした。
また、町村には同じ名称が非常に多く存在します。明治の大合併以前から存在する似たような村々を識別する「IDタグ」として、郡の名前を残しておくことは、管理側にとって都合が良かったのです。
つまり、現在の郡は「不要だが、無くすと後片付けが大変だから放置されている」という、行政上のサンクコスト(埋没費用)の塊のような存在なのです。
本当の終焉へ
かつては一つの郡に十数もの町村がひしめき合い、郡単位での祭りや交流という「地域のまとまり」としての機能もありました。しかし、平成の大合併を経て、今や郡の中に一つの町村しか残っていない「一郡一町村」のケースは珍しくありません。
行政機能としての実体を失い、広域的なコミュニティとしての実体も失いつつある今、郡は名実ともに歴史の地層へと沈もうとしています。住所の中に残るその名は、かつてそこに行政の意志があったことを示す、剥製のようなものなのかもしれません。




