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小平園

ラッパ手・木口小平

詳細

木口小平
生没年:1872年~1894年
職業:軍人(陸軍兵士)
ゆかり:生誕地
スポット:生家、記念碑

戦前の英雄・木口小平


 戦時中の日本では数多くの英雄が誕生しました。
 それは戦争の中で華々しい活躍を見せた軍人であったり、その死に様であったり理由は様々です。
 政府や軍隊関係者が積極的にこれらのエピソードを広めることで、国民や軍隊の戦意を鼓舞しようとしていたのです。

 高梁市成羽町出身の木口小平もそうした動きの中で有名になった人物です。
 
 彼は歩兵第21連隊第3大隊第12中隊のラッパ手として日清戦争に出征しました。
 そして成歓・牙山の戦いで突撃ラッパを吹いている最中に被弾し、そのまま死亡しました。

 遺体は死んでもラッパを口にしたままで、その精神力が美談として知られ、小学校の教科書に掲載されるなどして英雄として語られるようになりました。

小平園と記念碑


 木口小平の生家に近い場所に小平園という記念公園が作られています。

 死後20年が経過した1914年に整備されたもので、園内には「壮烈喇叭手木口小平之碑」と記された記念碑も建てられています。

記念碑
 この辺りは木口小平が生まれ育った土地で、公園を見下ろすように生家、そして少し離れた場所には墓所もあります。

 木口小平の死は1904年から小学生向けの第一期国定教科書「尋常小学修身書 巻二」で紹介されるようになりました。(※修身は現在の道徳のような科目)
 1910年の第二期国定教科書では巻一から紹介されるようになりました。
 これによって木口小平の名が広く知られるようになり、生まれ故郷でも顕彰する動きが出てきたのです。
 

木口小平と白神源次郎


 死亡してから20年後の顕彰の動きを「意外と遅いな」と感じられた方もおられるかもしれません。
 木口小平は亡くなってすぐに英雄的な扱いを受けたわけではありません
 事実、木口小平の父が遺骨を抱いて倉敷駅へ降り立った時、出迎える人は誰もいなかったと伝えられています。
 
 木口小平の死亡直後は倉敷市船穂町出身の陸軍兵士「白神源次郎」こそが、死んでも口からラッパを離さなかったラッパ手とされていました。
 
 「死んでも口からラッパを離さなかった兵士がいた」というエピソードは、誰がという人よりも、その話の方が先に広まっていました。
 後からラッパの名手として知られ、成歓・牙山の戦いで亡くなった白神源次郎であろうとなり、彼の名が発表されました。

木口園内の忠霊碑

 しかし白神源次郎の死因は溺死で、これは公表されています。
 話の辻褄が合わなくなった為に、1年後に同じ日に亡くなったラッパ手である木口小平であったと情報が訂正されました。

 しかし人々の間にこの訂正がすぐに浸透した訳ではありません。
 既に白神源次郎を称える歌なども作られており、広くその名が知れ渡っていました。
 それが前述の通り教科書などで木口小平の名前が出るようになって、ようやく世間の認識も訂正されるようになっていったようです。

マップ(小平園)



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関連リンク


写真:小平園、記念碑、園内にある忠霊碑
写真撮影:岡山の街角から

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