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お七と吉三郎の墓
詳細
お七
生没年:1668年~1683年(生年は没年から推測か)
職業:八百屋の娘
ゆかり:お七と吉三郎の墓
スポット:墓(見学無料)
関連リンク:誕生寺(お七の位牌と振り袖が供養されている)
八百屋お七とは
このページでは岡山市北区御津吉尾にある八百屋お七と吉三郎の墓について紹介します。
先にお七を知らない人のために簡単に解説するので、知っているという人は飛ばして頂いて結構です。
(現地にあるお七の墓の看板)
お七は1683年に放火事件を起こした為に死罪になったとされる少女です。家業が八百屋だった事から「八百屋お七」とも呼ばれます。
家が火災に遭った為に避難した寺で、そこで働く小姓と恋に落ちました。やがて家が建て直された為にお七一家は引き上げますが、お七は小姓を忘れられません。
再び火災が起きればまた一緒にいられると思い立ち、放火してしまいました。
木造建築が所狭しと立ち並ぶ江戸の町では火災は大きな被害につながるリスクが高く、重罪とされていました。お七のケースもボヤ程度で収まったものの死罪とされました。
お七と吉三郎の墓は何故岡山に?
お七の死は当時の江戸ではセンセーショナルな噂となり、両親は江戸で供養するのは難しいと考えました。
そこで行事のために江戸を訪れていた岡山の僧侶に、娘の位牌と振り袖を託して供養を頼みました。それは現在でも久米南町の誕生寺に収められています。
そしてお七が恋い焦がれた吉三郎もその事を聞きつけて岡山を訪れました。
その目的は誕生寺に供養されているお七の位牌に拝むためでした。そして願いを遂げた後は江戸には戻らず、岡山で余生を過ごしました。
吉三郎の死後、村人たちは二人の墓を作って供養しました。
現在でも二人の墓は建物の中で地元の人の手によって守られています。
吉尾での八百屋お七について
今回の八百屋お七はwikipediaにも掲載されているよく知られている内容を採用しましたが、お七のエピソードは複数のバリエーションが存在します。
実は岡山市のお七の墓に設置されているパンフレットでも別の話が紹介されているので、最後にそれについて紹介します。
吉尾で紹介されているストーリーでは寺でお七と恋に落ちたのは佐々木佐兵衛という旗本の次男です。それぞれ家に戻った後で身分の異なる二人が再び会うのは容易ではありませんでした。
吉三郎という男を介して手紙のやり取りは出来たものの、お七は恋煩いで体調を崩してしまいました。
そこで吉三郎は再び火事が起きればとお七に入れ知恵をしてしまいます。
これを実行したお七は大火事を起こしてしまいます。後に奉行所が調べる中で吉三郎が怪しいと目をつけられ、ついにお七の犯行を告白してしまいました。
この話しによると吉三郎が岡山を訪れたのは、お七を恋しく思う気持ちではなく、寧ろ贖罪の気持ちだったのですね。
尚、吉尾では吉三郎がお七の分骨を持っていたと伝えられているそうです。