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たまかき文書・たまがき

詳細

たまがき(写真は高架に描かれた、たまがきの絵)
生没年:不明(15世紀ごろ)
職業:一般人
ゆかり:出身地
スポット:石碑(生家跡)

たまがきとは

 新見市の国道180号の高架に、女性のイラストが描かれています。
 これはたまがきという女性で、皇族であるとか、絶大な権力者の娘であるというわけでもない、一般女性です。
 しかし、たまがきは一般人であるが故に名前が残った人物なのです。
 たまがきが歴史上の人物としてその名が伝えられているのは、彼女の記した【たまかき書状】という文書が残っている為です。
  これは歴史的に重要な内容が記されている史料というわけではありませんが、中世の庶民、しかも女性の書いた文書という点が非常に貴重です。
 そのたまがきが生まれ育ったのが、現在の新見市だったのです。

 たまがき自身は先述の通り一般女性なので、生年月日、没年日、たまかき文書前後の人生などの詳細は不明です。

たまかき書状と祐清

 では、そのたまかき書状には何を書いてあるのでしょう。

 当時の新見市には新庄荘という荘園が広がっていました。
 これを鎌倉時代末期から支配、管理していたのが京都の東寺です。書状は代官として新見へ派遣された若い僧・祐清(ゆうせい)に関する内容を記したもので、東寺の文書を保存する「東寺百合文」の内の一つです。
 祐清はそれまで年貢の徴収を代行していた安富氏に代わり、東寺が直接支配するようになった為に派遣されてきました。そういった事情もあってか、年貢の取り立てを厳しく行っていた事が知られています。
 当時は全国的な飢饉で、百姓らは直接支配に変わる事で年貢の減額を期待していましたが、逆に年貢未納に対して厳罰を持って対処する事が宣言されてました。

 年貢が未納になっていた名主の豊岡が成敗されるなどの出来事もあり、百姓らは祐清の管理に対して不満を抱いていたと言われています。実際に祐清が支配が上手く進んでいない状況に触れている文書も残されています。
 そしてその厳しさが原因でトラブルとなり、殺害されてしまいました
 殺害したのは追放された豊岡の関係筋からの依頼だったとする説もあります。

 たまがきは、赴任してきた祐清の身辺の世話をしていた人物です。
 死後も葬儀の手配などを手がけており、たまかき書状は、死後の手続きに関する報告の為の書類です。

たまがきの恋心?

 書状は祐清を代官として派遣した大元である東寺へ向けられた内容です。
 死を悼む言葉の他に、残されていた遺品の一覧、そしてその一部を売却として葬儀代や、僧侶の費用に充てた事などが記されています。

 興味深い点としては、たまがきが個人的に形見を求めている事が挙げられます。
 希望したのは3品、白小袖・紬表・布子というもので、特別に価値があるわけでもない、故人に馴染み深い日用品です。

 この事から、たまがきは祐清に対して、ただ身辺の世話を命じられてしていた…それ以上の感情があったのではないかとも考えられています。
 しかし残念ながらそうした事を感じさせる資料も、そして形見を受け取る事が出来たのかどうかを伝える資料も、全く残されていません。

たまかき生家跡
 現在、たまがきの生家跡には、記念碑が建てられています。
 ちなみに祐清の葬儀は新見市にあった善成寺で執り行われました。寺院は現存しませんが、跡地の一部が公園化されています。

マップ(生家跡周辺)




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写真:たまがきのイラスト
写真提供:Googleマップ

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