【怪談】観音端供養碑の話し
観音端供養碑の話し
笠岡市の古城山公園のすぐしたの港の辺りに「観音端供養塔」という石碑が祀られています。
この石碑には幕末、そして戦時中の世情を物語るエピソードがあります。
石碑は1852年に観音端と呼ばれる岬の岸辺に建てられました。
というのも幕末に古城山の西端にあった観音堂や、その下に広がる海で自殺をする人が続出しており、その霊を鎮めるためでした。
自殺者の正確な数字は伝わっていませんが、その評判のために港や町が錆びれるほどだったそうです。

(古城山からの展望)
笠岡の庄屋や町役人らは相談をし、浅口市から僧侶を招いて供養を行い、そして供養碑を建てました。すると自殺者は出なくなったそうです。
その後も供養碑は祀られていましたが、世界大戦中に実施された笠岡港の整備工事の際に土地造成に巻き込まれて紛失しました。
1970年に高橋鋳造所という会社が工事中に2つに折れた状態の供養碑を発見、補修して構内に祀りました。

後に高橋鋳造所が古城山斜面の整備の為に会社を移転する時に、現在の道路に面した元の観音端に近い場所に再び移されました。
「歴史の証人」
この供養碑の解説版では碑を「歴史の証人」と表現しています。
自殺者が多発したのは幕末の政情が不安定な状態だった為だそうです。
現代では幕末と言えば供養碑が建てられた後のペリー来航などの時期を指しますが、それ以前の時期も天保の飢饉やそれに批判的な立場の大塩平八郎の乱の発生、そして幕府の財政再建策も失敗に終わるなど、不安定な時期が続いていました。
そうした時期に自殺者が続いたというのは、当時の政情に将来の不安を感じる人が少なくなかったという事でしょうか。