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岡山城(消失前)

焼失した岡山城と大谷吉継の亡霊

焼失した岡山城の「開かずの間」


 岡山城天守閣は1945年の岡山空襲の際に焼失、現在の天守閣は1966年に再建された鉄筋コンクリート造の復元天守です。(関連リンク:岡山空襲について

 今回紹介するお話は、旧岡山城時代のことです。
 関ヶ原合戦で東軍に寝返り勝利の立役者となった小早川秀秋は、その戦功から岡山城に転封されました。
 しかし岡山藩時代の秀秋は精神的に不安定で、奇行が目立った事が伝えられています。家臣もそれを最初は諌めようとしました。
 しかし秀秋は自らに諫言した杉原重政を家臣の村山越中に上意討ちにさせました。
(関連リンク:杉原重政殺人事件

 その上意討ちがされた部屋では、重政の血飛沫が消えないという怪現象が起こりました。畳を新調しても血のようなシミが浮かび上がり、更には部屋に入った人間が謎の死を遂げる事態まで発生。
 その部屋は出入り口を封じて、開かずの間とされたそうです。
 前述の通り、空襲の際にこの部屋も失われました。

小早川秀秋を悩ませた亡霊


 開かずの間を生み出す原因となった小早川秀秋。
 奇行が目立った原因には諸説ありますが、大谷吉継の亡霊が原因とする説も知られています。
 大谷吉継は関ヶ原合戦で西軍から東軍に寝返った秀秋が奇襲を仕掛けた武将です。
 吉継は奇襲に堪えきれずに切腹しました。

 その吉継の亡霊が城内を彷徨っており、秀秋はそれに怯え精神的に疲弊していってしまったというのです。
 吉継は切腹の直前に秀秋へ対して「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん。」という呪いの言葉を残したとも伝えられています。
 実際に秀秋は合戦の2年後に21歳で早世。子供がいなかった為に小早川家は徳川幕府で初の無嗣改易となりました。
 秀秋の死後、吉継の亡霊の噂は聞かれなくなったそうです。
 
 尚、現在では秀秋はアルコール依存症だったと考えられており、死因も飲酒による内臓疾患によるものとする説が有力です。
 もしかすると奇行もお酒によるものだったのかもしれませんね。


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写真:岡山城天守閣(焼失前)

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