庭瀬城跡
詳細
■ 所在地:岡山市北区庭瀬829-5
■ 建設:寛治年間、永禄年間などの説がある
■ 営業時間:見学は24時間可
※ただし、夜間は暗いので日中が推奨です
■ 入場料:無料
■ 駐車場:有り
庭瀬城跡
岡山市北区庭瀬に庭瀬城跡があります。
城の建物は石垣の他に特に残されていません。かつての堀には岡山市出身の大賀一郎博士が2000年前の種を発芽させた「大賀ハス」が植えられています。
城跡には清山神社という神社が整備されています。
1699年から江戸時代の終わりまで庭瀬藩を治めた板倉家の中興の祖である板倉重昌と板倉重矩を祀る神社です。
訪問時(2022年)は建物の老朽化が進んでおり、瓦が落ちる危険性のために近くには立ち入れないようにロープが張ってありました。
庭瀬城跡の近くには撫川城跡があます。2つの城は元は1つの庭瀬城でした。
築城時期には寛治年間、永禄年間など諸説があります。後者の説は三村元親が宇喜多家の進行を防ぐ為に整備したというもので、これが築城なのか元あった城の改宗なのかは分かりません。
中国兵乱記では豊臣秀吉による高松城攻略に対する、毛利側の国境防備の城「境目七城」の一つに数えられています
いつ分かれた、撫川城と庭瀬城
前述の通り撫川城と庭瀬城は元は一つの庭瀬城でした。元々は庭瀬城が現在の撫川城の辺りまでを敷地としていたのです。
これが分かれて呼ばれるようになった時期は明確ではありません。
しかし戸川安風が早世し、無嗣断絶になった戸川家を弟の戸川逵冨が交代寄合として存続させたタイミングであるというのが有力説です。
この時に戸川逵冨は現在の撫川城跡のあたりに撫川陣屋を構えました。
そして新たに庭瀬藩の藩主として久世家が入封した際に、現在の庭瀬城跡の辺りに庭瀬藩陣屋を構えました。
庭瀬城が撫川城と庭瀬城に分けて語られるようになったのは、この2つの陣屋が出来て以降と見られています。
関連リンク:撫川城跡