『20日で作られ、やがて暗渠になった二十日堀』
二十日堀とは
岡山市の柳川筋はかつて二十日堀と呼ばれる岡山城の外堀でした。
現在でも周辺には寺院が点在していますが、これは有事の際に砦に転用できるようにしていた名残だと言われています。
関ヶ原の戦いの後に岡山城の藩主になった小早川秀秋。彼が岡山藩主だったのは僅か2年程度の期間でしたが、積極的に城下町の整備を進めていました。
その事業の一つが二十日堀です。その名の通り20日で作り上げたと言われています。突貫工事で作られたと言われていますが、江戸時代を通して二十日堀は岡山城を守り続けました。
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そして消えた二十日堀
しかし先に紹介した通り、二十日堀は柳川通りに姿を変えています。
廃城後の二十日堀は汚水がたまるようになっており、社会問題になっていました。不衛生な状態の堀が市街地の中心にあるのですから、ついに県も動きます。
明治8年、当時の県参事(※現在の県知事)である石部誠中は汚水が溜まっている状況で不衛生であるという保健上の理由で堀の埋め立てを内務卿に申請しました。
ただしこの時の埋め立ては二十日堀の全てではなく、堀の両側を埋めててて中央部分は水路として残されました。この時、残された水路の両岸に柳が植えられた事から柳川の地名が誕生しました。
後に路面電車の整備が決まった際にこの水路は暗渠とされ、現在に至ります。
売れなかった柳川筋
ところで柳川筋は当初は道になる計画ではありませんでした。
最初期の計画では堀を埋め立てて出来る土地は士族に払い下げる事になっていましたが、秩禄処分の方針が決まった為にこれは実現しませんでした。
そこで一般に土地を半ばしようとしましたが、思いのほか土地は売れず、道路を作ることになったという経緯があったそうです。
今や市街地の中でも最もにぎわうエリアの一つである柳川筋周辺。
さかのぼると、それほど人気がない時代もあったのですね。
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画像:柳川筋

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