『戦前の英雄、ラッパ手は誰だったのか』
ラッパ手・白神源次郎が英雄に
戦前の日本で英雄視された軍人は何人かいますが、岡山県出身で教科書にまで掲載された「木口小平」という人物がいます。
1894年7月29日。
日清戦争初期の主要な戦闘である「成歓の戦い」において、一人のラッパ手が敵弾を受け死亡しました。この人物は死して尚、口からラッパを離しませんでした。
これが軍人の鑑として、国民に大々的に報じられ、まさに英雄となりました。
当然、このあっぱれな軍人は誰か…という話になりますが、その時に名前が挙がったのが現在の倉敷市出身の白神源次郎でした。
その出来事を綴った「喇叭の響」という軍歌が作られたり、盛大な葬儀が行われたりと、新たな英雄の誕生に日本が沸きました。
しかし、この発表は後に訂正されることになります。
実は白神源次郎はラッパ手ではなかったのです。
明かされた真実
白神源次郎がラッパの名手として知られた人物である事は間違いありません。
しかし、それは彼が死亡する際に属していた第五師団の時ではなく、歩兵21連隊に所属していた頃の事です。当時はラッパ手を務めており、彼の吹くラッパは力強い事で知られていたと言われています。
先のラッパ手で名前が一番に上がったのも、その評判の為でしょう。
しかし予備役で招集された第五師団ではラッパ手を務めていませんでした。更に死因もラッパを口から離さないどころ、溺死だったことが判明しました。
こうした不都合が生じた事から、白神源次郎を英雄から交代させることになり、改めて名前が挙げられたのが木口小平でした。
彼も現在の高梁市出身の岡山県民で、同じ日に戦死した人物です。そして今回は間違いなくラッパ手を務めていました。
どことなく、急遽条件に合う人物を見つけ出してきたようにも思えますが、教科書も修正され、徐々にラッパ手は木口小平である事が浸透していきました。
二人のラッパ手のその後
ではその後の二人のラッパ手はどうなったのか。
まずラッパ手の座から外された白神源次郎ですが、やはり最初に名前が挙げられた人物であり、別人だったと発表された後も長らく英雄視され続けました。
彼の生まれ故郷である倉敷市船穂町には記念碑も立てられましたが、これが完成したのは木口小平に変更された翌年の1896年の事でした。

(倉敷船穂町の白神源次郎記念碑)
教科書の記載も続き、白神源次郎を英雄として見る声はすぐには収まりませんでした。しかし、国定教科書制度のスタートにより、徐々に木口小平の名も定着するようになりました。
戦死から20年が経過した1914年には、木口小平の記念碑も作られました。

(高梁市成羽町の木口小平の記念碑)
教科書の記述が書き換わろうとも、二人が国のために命を捧げたという事実に変わりはありません。ラッパを離さなかったのが誰であったかという議論を超えて、白神源次郎と木口小平という二人の青年が確かに存在した事こそ、語り継がれていくべきことなのでしょう。
戦後、彼らが「英雄」として語られることはなくなりましたが、故郷の空の下に立つ二つの石碑は、時代に翻弄された二人の魂を今も優しく見守っているかのようです。
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画像:柳川筋

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