TOPコラムコラム・岡山の事件簿>34.継政の離婚騒動

離婚のイメージ図

『継政の離婚騒動』

池田継政とは


 池田継政は、池田綱政の次に岡山藩主を務めた人物です。

 その政治は概ね民意を汲んだ善政として知られています。
 他の藩で百姓一揆が多発していた時期でも、岡山藩では一揆が起こらなかったという有名なエピソードがあるほどです。

 文化人としても優れていました。
 知名度では池田光政に劣るものの、歴代の岡山藩主の中でも有数の名君だったと評価して間違いないでしょう。

 しかしそんな継政の人生には周囲を大いに困惑させ、仙台藩との関係をこじらせて40年以上も絶交の状態に陥らせてしまう出来事がありました。

異例の離婚


 池田継政は1722年に仙台藩の藩主・伊達家の娘、和子と結婚しました
 跡継ぎ(宗政)にも恵まれ、順風満帆のように思えましたが、1737年に突如として離婚します。

 この離婚が当時としては異例で、非常にまずい形で行われたのです。

 当時の大名の離婚は政治上の争いに発展する事を避ける為に、幕府を通じて穏便に進めるのが通例でした。
 しかし継政・和子の夫婦は幕府は勿論、仙台藩の伊達家にも相談をせずに独断で離婚を決めて、事後報告で終わらせてしまったのです。

 この離婚の影響で岡山藩の池田家と仙台藩の伊達家は絶交状態に陥ります。
 ようやく和解したのは継政が逝去して10年以上経ってからです。

離婚騒動とその後


 異例の離婚に対し、伊達家は納得がいきません。
 伊達家は継政の品行がよくない事を原因として考え、池田家内で諍いがあり、その為に和子の存在が邪魔になった為の離婚だと考えていたようです。
 対する池田家は和子に原因があったような主張をしていますが、結局どちらかが悪かったのか、それとも別に理由があったのかは不明です。

 この離婚の為に幕府にも詮議されました。
 前述の通り池田家と伊達家は長く絶交状態に陥ったものの、事態はそれ以上には悪い方向には進みませんでした。

 伊達家の主張が噂となっていることを気にかけた継政は隠居を希望していました。
 しかしまだ官位が上がっていない状態であり、そのまま隠居すると池田家の格が低下してしまう事から叶わず、最終的に息子に家督を譲る50歳まで藩主を勤め上げました。

 隠居後も早世した息子の跡を継いだ孫の治政の補佐として政治に携わっていたとされ、離婚騒動以外は全く以って名君だったのです。


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写真:離婚のイメージ図
写真提供:イラストAC


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