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『紫雲丸事故の悲劇』
紫雲丸とは
本州と四国を結ぶ「本四架橋計画」の中で、最初に完成したのが瀬戸大橋です。
その背景には、地元住民の「四国と本州を陸路でつなげてほしい」という強い願いがありました。そして、その想いを後押しする大きな出来事が、1955年に発生した「紫雲丸事故」でした。
紫雲丸とは?四国と本州を結ぶ重要な連絡船
紫雲丸は、旧国鉄が運航していた宇高連絡船の一つで、岡山県の宇野港と香川県の高松港を結ぶフェリーとして活躍していました。まだ橋がなかった時代、四国へ向かう多くの人々は岡山駅から宇野駅へ向かい、そこから連絡船に乗って四国へと渡りました。
宇野港は当時、「四国の玄関口」とも呼ばれ、多くの人で賑わいました。
また、紫雲丸は人だけでなく貨物も運搬する「客貨船」として、物流の面でも重要な役割を担っていました。総トン数1,480トンという大型の船で、最大乗客数は約1,500人。多くの旅客と物資を日々運んでいたのです。
事故の多い船として知られた紫雲丸
紫雲丸は、宇高連絡船の主力であった一方で、たびたび事故を起こしていた船としても知られています。特に1950年~1957年にかけて5度の大きな事故を起こしており、紫雲丸事故はそれらの事故の総称として用いられます。
その中でも1955年に発生した5度目の衝突事故は子供を中心に多くの死傷者を出し、日本中に衝撃を与えました。多くの犠牲者を出したこの事故が、本四架橋への機運を高めるきっかけとなりました。
紫雲丸事故

・1回目(1950年3月)
同じ宇高連絡船だった鷲羽丸と衝突。
鷲羽丸の船首が刺さった紫雲丸は、この事故で乗組員に7名の死者を出し、沈没しました。
後に引き上げられ、修復されて再び宇高航路へ復帰します。
・2回目(1951年8月)
第二ゆす丸という船舶と高松港内で衝突しました。
後日、レーダーを加装して対策を施しました。
・3回目(1952年4月)
波の勢いを弱める為の捨石という石に衝突しました。
後日、ジャイロコンパスを設置して対策を施しました。
・4回目(1952年9月)
再び高松港内で福浦丸という船と接触する事故を起こしています。
・5回目(1955年5月)
宇高連絡船の貨物船だった第三宇高丸と衝突し、沈没しました。
乗客781人と貨物車など計19両を載せて運行していた紫雲丸が沈没。
この事故で168人の死者が出ました。
一般には5回目の事故単体を指して紫雲丸事故と呼ぶ事が多いですが、こうして見返していると事故が起こるまでに何か安全対策が出来なかったのかと考えてしまいます。
5回目の事故の詳細
5回目の事故は国内の海難事故として指折りの規模で、汽船紫雲丸汽船第三宇高丸衝突事件の呼称も知られています。
高松港から宇野港へ向けて出発した紫雲丸が、濃霧の中で第三宇高丸と衝突し、その数分後に沈没しました。
(※赤のポインタが衝突地点)
事故時の紫雲丸には修学旅行の小中学生が多く乗船しており、168人の死者の内の100人を占めています。
濃霧の中での運行に関する規定が守られず、お互いに連絡を取り合う事も、速度を調整する事も怠られた為に発生した事故でした。逆に言えばたったそれだけの事が行われれば回避できた事故だったのです。
第三宇高丸の船首が紫雲丸に刺さっていたので、乗客はそこから脱出し、海に転落した人々も近くで漁をしていた漁船の協力などで助けられました。
しかし児童の多くは避難が遅れ、多くの死者が出ました。
その後
紫雲丸事故の影響と本四架橋計画への波及
紫雲丸事故後、裁判を通じて事故の原因や関係者の責任が明らかになりました。特に濃霧時における運行ルールは厳格化され、安全対策が大幅に強化されることとなりました。その結果、宇高連絡船では5回目の事故以降、航路が廃止されるまでの間に人命に関わる重大事故は発生していません。
しかしこの事故は単なる交通トラブルにとどまらず、多くの人々の心に深い傷を残す社会的事件となりました。特に犠牲者の遺族を中心に、「本州と四国を安全に陸路でつなげてほしい」という強い要望が高まり、本四架橋計画の実現を後押しする重要な契機となりました。
瀬戸大橋が本四架橋の中で最初に着工・完成した背景には、紫雲丸事故によって高まった岡山~香川間での橋の必要性と、遺族感情への配慮があったと言われています。
改名された紫雲丸とその後の運命
事故後の紫雲丸は「瀬戸丸」と名称を変えて再び運航されました。
1960年に再び衝突事故に遭遇したものの、1966年まで宇高連絡船で活躍を続けました。
名前の変更は事故の印象を払拭する目的もありますが、「紫雲」という言葉が仏教で死を象徴する意味合い(阿弥陀如来の来迎に使われる雲)を持つため、当初から縁起が悪いとされていた事も影響していたと考えられています。
紫雲丸事故がもたらした社会的影響
紫雲丸事故の社会的影響は、本四架橋計画の推進だけにとどまりません。
事故の数年後、三重県では中学生が集団で水難事故に遭うという悲劇が発生しています。この事故と紫雲丸事故が全国で学校のプール設置を進めるきっかけになったと言われています。
紫雲丸事故は日本社会における「安全」への意識を大きく変えた出来事であり、交通インフラや学校教育のあり方にまで影響を及ぼした歴史的な転機だったのです。
関連リンク
画像
『現在の宇野港』

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