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焼け野原

津川原の惨殺事件

津川原の惨殺事件 前編:被差別民の歴史


 1873年に津山市の津川原という小さな村で、全戸が焼かれ、村民18人が惨殺される事件が起こりました。

 その詳細を解説する前に、事件が発生するに至った経緯を解説します。
 尚、身分制度については非常にデリケートで、様々な見解もあります。
 解釈については、教科書的な表現ということでご了承下さい。

 江戸時代の日本の身分制度は士農工商、そしてその下に穢多非人が置かれました。
 当時の制度の中では概ね士(武士)が上で、農工商がほぼ横並びの平民、そして穢多非人がその下という位置づけだったようです。
 一説には平民の下の身分を置くことで、中央へ対する不満をかわす目的があったとも言われています。
 地域によって差異があったようですが、多かれ少なかれ差別的な扱いが存在していました。

 しかし明治政府になり、状況が変わります。
 賤民解放令(身分解放令とも)が出され穢多非人の身分は廃止されました。
 

津川原の皆殺し 中編:受け入れられない解放令


 前述の通り明治政府によって穢多非人という被差別の身分は廃止されました。
 しかし長年続いてきた制度の急な廃止は、決してスムーズに進んだわけでは有りません。
 津川原の皆殺し事件もそうした不満によって引き起こされました。

 岡山県の美作地方で「美作血税一揆」が勃発します。
 徴兵を血税と表現したことが、生き血を取られると曲解された事が大きな原因とされる一揆です。
 この時に掲げられた中に賤民解放令への不満もありました。
 今まで道で通りすがる時に土下座をしていた人々が、解放令によって急に対等の立場になった事が受け入れられなかったのです。

 賤民解法令への不満は津川原に限らず全国で見られ、被差別民の住む地区を襲撃するなどしました。そして暴力により詫び状を出させて屈服させましたが、中には抗う事を選んだ人々もいました。
 それが津川原の人々です。

津川原の皆殺し 後編:そして起きた惨殺

 
 抗う津川原に一揆の参加者たちが集まり、多勢に無勢の情勢でした。
 そして津川原の住民らは惨殺され、家には火が放たれ、当時を記録する「美作騒擾記」によると延焼により家屋全戸が焼き尽くされたそうです。

 人々の狂騒はそれだけに留まりません。
 襲撃から逃れるために山に逃げた人々を追い、見つけると惨殺しました。
 解放令に反発する一揆は各地で起こりましたが、その中でも津川原の死者18人は他にない人数です。
 その中には津川原を制圧する際の抵抗力になるとは思えない高齢者や、幼い子供も含まれていました。

後日談 消えた津川原


 津川原の地名は現在は用いられていません。
 ネット上に津河原を「地図から消えた村」等として、まるで杉沢村伝説のような表現をしている記事もありますが、すぐに消滅したわけではありません。
 村が合併して滝尾村になったのは1889年で、事件から25年以上経過しています。

 事件の影響もあったかもしれませんが、そもそも前年に町村制が施行された為に各地で小さな地区の合併が進んでいた時期です。
 津川原村の規模では事件がなくても、合併は行われていたでしょう。

 滝尾村を設置した後も津川原の地名は大字として存続。
 地名が使われなくなったのは1954年のことで、滝尾村が津山市に編入された際に改称されました。
 事件後も長く津川原の地名は使われていたのですね。


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