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岡山後楽園の風景

後楽園の歴史(江戸時代)

藩主ごとの変遷


 後楽園は藩主が休息をとるために作られていた大名庭園であり、時の藩主がそれぞれの好みに合わせて変化して言っています。
 大規模ではありますが、庭弄りのような感覚で楽しまれていたのでしょう。

 その中から大きな動きを幾つかピックアップしてみました。

池田綱政
 後楽園を作った綱政自身も、1700年の工事完了後も様々に手を加えています。
 後楽園にある能舞台を最初に作ったのも、綱政です。
 自身も能を舞うほどの能の愛好家でした。

池田継
 綱政の四男で、綱政の作った後楽園に最初に手を入れた藩主です。
 彼はひょうたん池、唯心山を作りました。
 唯心山は高さ6m程度の山ですが、この山によって庭園に立体感がもたらされ、また園内の風景を高いところから眺めるなどの、様々な楽しみ方が加えられました。
 能舞台の改築も行っています。

池田治
 時の老中である松平定信の倹約令に果敢に反対して、豪勢な大名行列を断行するなどしたエピソード持つほど豪腕だった事で知られる藩主です。

 治政は個人の趣向による変更ではなく、経費削減の目的で後楽園の田園の撤廃を断行しました・
 後楽園は綱政の好みで当初は田園を中心とした庭園でした。
 しかし田畑を管理する為に雇う人などの経費が掛かる為、全て芝生へ変えました。
 こうして現在見られるような、芝生を中心とした景観が生まれたのです。

 ただし後に東側の一部は田畑へ戻され、現在も井田として、残されています。

 以上が園内における大きな動きでした。

利用目的

 後楽園のような豪勢な庭園を作れば、来客に自慢したくなるのが人の常ですが、江戸時代は贅沢が良しとされない時代であった為、幕府によくない形の密告をされることを警戒してか当初は接待には用いられていませんでした。

 ただし江戸時代の後期になると幕府の力が衰えてきます。
 9代藩主の池田斉敏の時代に父親である島津藩主の島津斉興をもてなしたという記録が残されています。
 この頃から他藩からの来客を案内するようになっていたものと考えられています。

 それ以前の時代では、藩主や家臣、その家族といった近しい人物の他に、実は藩主が参勤交代で留守の間に日を決めて領民にも公開されていました
 その歴史の多くは岡山藩の為の公園として利用されていたようですね♪


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写真
『後楽園の芝生の風景』(写真提供:岡山県)


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