大久保諶之丞が描いた最初の架橋構想
本州と四国を結ぶ「夢」はいつ生まれたのか?
現在、岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋をはじめ、本州と四国は3つのルートで陸路が繋がっています。この「本州四国連絡橋」という前代未聞の大事業は、どのようにして始まったのでしょうか。
驚くべきことに、この壮大な計画が初めて公式に記録されたのは、瀬戸大橋が完成した1988年からほぼ一世紀も遡る明治時代のことです。
■ 最初の提言者:大久保諶之丞
1889年、讃岐鉄道(現在のJR四国の原型)の開通式が行われた際、一人の香川県議会議員が驚くべき計画を口にしました。それが大久保諶之丞です。
大地主の家に生まれた彼は議員として提案するだけではなく、自ら資金提供することでそれらを実現していく剛腕議員でした。
彼は瀬戸内海をまたいで四国と本州を陸路でつなぐという壮大な構想を発表しました。これが後の本州四国連絡橋における最初の公式な提言であるとされています。

現在では瀬戸大橋の差塩hの発案者として像まで作られている大久保。
彼は提唱の2年後に42歳の若さで早世しました。もし彼が存命なら、瀬戸大橋架橋への動きはもっと早くなっていたかもしれません。
早すぎた夢物語と人々の希望
大久保諶之丞の先見性には驚かされますが、当時の技術水準では、これほど大掛かりな橋の建設は遥かな夢物語だと考えられていました。
1988年に完成した瀬戸大橋でさえ当時の世界初となる技術を幾つも投入して、ようやく実現しました。この時代にそのように思われることは仕方ない事でしょう。

彼の発言から25年後の大正時代、徳島県選出の衆議院議員の中川虎之助が帝国議会に架橋に関する建議案を提出した際も、計画はあっさり否決され、彼は陰で笑い者にされたという記録が残っています。
しかし、こうした提言が繰り返された事実は「いつか陸路で本州と四国が繋がれば良いのに」という、当時の多くの人々が抱いていた希望が時代を超えて存在していたことを物語っています。
これらの先人たちの夢が、後の世紀に瀬戸大橋という形で現実のものとなったのです。

|
目 次
|
|---|
![]() ![]()
![]() ![]() |
写真:瀬戸内海
写真撮影:岡山の街角から
最終更新:2025.9.18

-戻る-




