瀬戸大橋物語8:
橋のある未来へ…
■ 橋のライバル
瀬戸大橋の誕生は多くの人々が待ち焦がれた世紀の大イベントであり、生活に改革をもたらす存在でした。
これで不便が解消される、これで観光客も増える、これで良くなっていく―。
しかしその期待や喜びの中で消えていく運命を辿ったものもあります。
まずJR四国によって運行されていた宇高連絡船は瀬戸大橋開通前日にその役割をバトンタッチする形で引退しました。
しかし宇高便の全てが無くなった訳ではありません。
紫雲丸の事故を受けて、濃霧や強風の際に船が危険だからという理由で橋を望んだ方も多くおられた事でしょう。しかし、強風などによる交通規制は船よりも橋のほうが早く、その為に四国フェリーは、乗客の減少と戦いつつ現在も宇高便を続けています。
(※宇高国道フェリーは2012年に休業)
主役の座はまだ譲れない―。
こちらは今も瀬戸大橋と四国への玄関口を競い合ういいライバルです。
■ 過ぎ去りし者
更に瀬戸大橋には電車が通るために、JRの瀬戸大橋線が開通しました。
この影響を受けたのが、下津井電鉄です。
瀬戸大橋の開通当時、既に路線としては赤字で、会社もバス事業にシフトしている状況でした。
瀬戸大橋開通による観光需要の増加を睨んで電車の増設などの対策を打ったのですが、瀬戸大橋線によってもたらされた利便性は、そのバス部門にも影響を及ぼし、また瀬戸大橋が見えるのは鷲羽山駅周辺のみでした。
観光需要も余り拾い上げることが出来なかった為に、瀬戸大橋の登場から1年8ヶ月でその歴史へ幕を下ろし、全線廃止となってしまいました。
このように瀬戸大橋完成前後の岡山、香川では様々なものが生まれ、様々なものが消えていきました。
私たちが選んだ橋のある未来は、手に入れるばかりではありませんでした。
瀬戸大橋という世界に誇れる建造物を前に、誇らしい気持ちになると同時に、変わりいく町の風景に一抹の寂しさを感じてしまう―そんな人も多いのかもしれません。
関連リンク:『コラム:下津井電鉄線跡を歩く』
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写真撮影:岡山の街角から
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