瀬戸大橋物語2

現在のフェリー

紫雲丸事故

 多発した海難事故
 四国と本州を橋で繋ぐなんて夢のまた夢―

 一部の人たちが抱いた夢は本気で論じられる事が無いまま年月は流れていきます。
 実際に着手したからと言って、実現は難しかったのかもしれませんが、それ以上に船での本州四国間の移動でも、不便ではなかったという事が挙げられるのではないでしょうか。

 そんな状況を大きく変えたのが、船で多発した海難事故です。
 戦後、日本では大きな被害を出した船の事故が続いています。
 特に『紫雲丸事故』の総称で呼ばれる宇高連絡船(岡山県と香川県を結ぶ航路)『紫雲丸』の9年間で5度の事故による影響は大きなものでした。
 中でも5回目に起きた事故は修学旅行で乗り合わせていた広島、島根、愛媛、高地の四つの小中学校の生徒を巻き込み、168人もの死者を出す、日本の海難事故でも有数の大惨事となりました。

 高まる機運
 この一件以後、事故の原因となった濃霧時の停船勧告基準をより厳しくするなど、様々な対策が取られることになり、大きな事故は起こっていません。
 しかし人々の心に刻まれた傷跡は深く、また基準が厳しくなった為に輸送が滞ってしまう一面もあり、新しい交通網の確保として陸路で本四を繋ぐ瀬戸内海への架橋への期待が高まるきっかけとなりました。

 紫雲丸の事故は、本州と四国を結ぶ為の架橋計画をまず『岡山・児島~香川・坂出間』からスタートさせたきっかけにもなりました。


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写真撮影:岡山の街角から


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