瀬戸大橋物語3
瀬戸大橋架橋前夜
■ 架橋計画の始まり
紫雲丸の事故から4年後の1959年には建設省が本格的な調査に乗り出し、更に1961年には国鉄も本格的な調査を開始、ついに夢物語だった本州四国を結ぶ巨大な橋の計画は現実味を帯びてきました。
1969年には現在まで続く三つのルート(瀬戸大橋、しまなみ海道、鳴門大橋の3ルート)が決定し、翌1970年に本州四国連絡橋公団が発足、建設へ向けて動き始めました。
それぞれの橋をどこへ架けるのかも議論になりました。
候補となったルートは以下の形でした。
・玉野市~高松市
宇野~直島、女木島経由~高松
日比~大槌島、小槌島経由~高松・下笠井地区
・倉敷市~坂出市(現在の瀬戸大橋)
玉野市~高松市は元々、本州と四国を結ぶ連絡線が通っている事から有力視されていましたが、岩盤の固さ、途中に島が多く中央径間(橋の塔と塔の間の長さのこと)を短く出来るという事から、現在の位置に決まりました。
■ 橋の安全性を求めて
瀬戸大橋は本州と四国を結ぶ三つのルートの中で唯一、自動車道路と鉄道を通す併用橋です。(上が車道、下が鉄道です)
現在でも世界一の長さとなるこの計画こそが、瀬戸大橋建設に最大の課題をもたらしたのです。
それは列車を通す事から発生する問題です。
列車が通ると橋がたわんでしまい、列車の脱線の原因になってしまうのです。
そこで、このたわみを最小限に食い止めなければなりません。
その為に必要となるのが、橋を支える巨大なケーソン(橋の基礎となる部分)です。
『7A』と呼ばれる坂出側の海底に設置されたケーソンは、55mという規模(ビル15階に相当する高さ)でした。
これを砂や石でデコボコになっている堆積層を水平にした上で設置しなければいけませんでした。
壮大な計画は、やっと動き始めたばかりでした。
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写真撮影:岡山の街角から
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