TOP>コラム>倉敷にチボリ公園があった頃>9.閉園までの流れ
閉園までの流れ
チボリインターナショナル社との契約終了
チボリ公園は駆け込み需要があった最終年度を除いては赤字を続けていました。
なので既に閉園もやむなしな状態でしたが、もう一つ大きな問題がありました。
本家のチボリ公園の運営会社であるチボリインターナショナル社との関係です。
倉敷チボリ公園の運営を行っていたチボリジャパンは、2007年に本家のチボリ社と契約更改をする必要がありました。
しかし、第7回目でも触れた通り、来園者数が減っている状況を憂慮した本家チボリ社は契約更改の為の条件として、アトラクションなどへ5年間で36億円の追加投資を行う事を求めました。
しかし倉敷チボリ公園の立地や運営状況ではそれは難しい上に、様々な形で支援を続けてきた岡山県は、娯楽性を高めるための追加投資は行えないとの立場を示しました。
そして最終的に契約更改は行われない事になり、チボリ公園の名称を使えるのも2008年12月31日までに決定しました。
なので既に閉園もやむなしな状態でしたが、もう一つ大きな問題がありました。
本家のチボリ公園の運営会社であるチボリインターナショナル社との関係です。
倉敷チボリ公園の運営を行っていたチボリジャパンは、2007年に本家のチボリ社と契約更改をする必要がありました。
しかし、第7回目でも触れた通り、来園者数が減っている状況を憂慮した本家チボリ社は契約更改の為の条件として、アトラクションなどへ5年間で36億円の追加投資を行う事を求めました。
しかし倉敷チボリ公園の立地や運営状況ではそれは難しい上に、様々な形で支援を続けてきた岡山県は、娯楽性を高めるための追加投資は行えないとの立場を示しました。
そして最終的に契約更改は行われない事になり、チボリ公園の名称を使えるのも2008年12月31日までに決定しました。
県の撤退、閉園へ
この時点で岡山県が事業主体から降りる事を表明します。
岡山県はチボリ公園という名称を掲げた公園である事を『広域観光拠点』として位置づけており、そのブランドを外した公園を支援する事は難しいとするものでした。
これによって倉敷チボリ公園は梯子を外された状態に陥ります。
その後、公園の一部をアウトレットモールとして規模を縮小して継続する案や、市民公園化などの案も出されましたが、市民公園とした場合に主体となる倉敷市や、地主である倉敷紡績の意向もあり、どれも実現しませんでした。
そして、チボリ公園の名称が使える最終日である2008年12月31日のカウントダウン終了時点(正確には2009年1月1日未明)で、倉敷チボリ公園は閉園となりました。
岡山県はチボリ公園という名称を掲げた公園である事を『広域観光拠点』として位置づけており、そのブランドを外した公園を支援する事は難しいとするものでした。
これによって倉敷チボリ公園は梯子を外された状態に陥ります。
その後、公園の一部をアウトレットモールとして規模を縮小して継続する案や、市民公園化などの案も出されましたが、市民公園とした場合に主体となる倉敷市や、地主である倉敷紡績の意向もあり、どれも実現しませんでした。
そして、チボリ公園の名称が使える最終日である2008年12月31日のカウントダウン終了時点(正確には2009年1月1日未明)で、倉敷チボリ公園は閉園となりました。
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画像提供:岡山県
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