備中宇治茶と二人内蔵助
備中宇治茶
入場料を払って入った備中松山城。
有料の施設を利用するなら、金額分は堪能したいと思うのが人情です。
中に入るとどのようなお楽しみがあるのか…?というと、まず写真の備中宇治茶があります。
高梁市には宇治町という地域があり、ここはその名の通りお茶の産地です。
そこで採れるお茶が、備中宇治茶です。
冷え切った体に染み渡る美味しさ、思わずおかわりしてしまいました。
もちろんこのお茶は入場料を払えばそのまま頂けます。
余談ですが高梁市は紅茶の生産も盛んで、地元のお土産屋で購入できます。
こちらもなかなかの美味なので、訪れた際にはぜひお買上げ下さい。
このお茶がある場所が六の平櫓の建物で、中に入ると城の改修などに関する資料や、動画を楽しむことが出来ます。
二人内蔵助
これは江戸時代に備中松山城の城主となった水谷家に関するエピソードです。
水谷家は三代目の水谷勝美まで順調に続きましたが、31歳という若さで子供が居ないままお亡くなりになってしまいます。
本来のルールであればこの時点でお家断絶となるのですが、当時はそれを防ぐ為に『末期養子』という特別ルールが幅広く認められるようになっていました。
嗣子が居ないまま城主が危篤に陥った場合、その時点ですぐに養子縁組を交わすことで跡継ぎがいる事にしてしまう手段です。
この方法によって従甥(従兄弟の息子)だった水谷勝晴を跡継ぎとして断絶を回避する筈だったのですが、今度は勝晴が家督を継ぐ前に急逝してしまいます。
13歳という若さでの悲劇でしたが、末期養子に更に末期養子を行う事は認められず、水谷家は改易になってしまいます。
この時に城の受け渡しに当たったのが後に忠臣蔵で知られるようになる赤穂の浅野家で、名代として城を訪れたのが大石内蔵助でした。
改易への不満から混乱が予想される地へ単身で訪れ、無事に無血開城に漕ぎ着けます。
この時に対応した水谷家の家老が鶴見内蔵助だった事から、『二人内蔵助』や『両内蔵助の会談』と呼ばれています。
後に忠臣蔵の事件で自身の赤穂藩も改易の憂き目に遭う大石内蔵助ですが、自身の開城の際にも無血開城を行っています。
ちなみに大石内蔵助は開城後、次の城主が訪れるまでの一年半をこの地で過ごしています。
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写真撮影:岡山の街角から
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