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現在の貝尾の様子

都井睦雄の半生1(誕生~進学断念)


都井睦雄、誕生~貝尾移住まで


 都井睦雄は1917年3月5日に苫田郡加茂村行重(現・津山市)で、都井家の長男として生まれました。事件を報じた合同新聞(現在の山陽新聞)では都井家について「中流以上を誇る資産家」としており、裕福な家の生まれでした。
 兄弟は3歳上の姉が一人います。
 1919年に父が、1920年に母がどちらも肺結核で相次いで亡くなりました。

 先のページで紹介した通り当時の肺結核は不治の病として恐れられ、感染のリスクもある為、差別対象になりました。都井家では睦雄の祖父も同時期に亡くなっており、その死因も肺の病気だったようです。
 その為に肺結核の家系に対する蔑称である「ろうがいすじ」であるとされました。

 この事は家督相続にも影響を及ぼします。
 本来であれば父が亡くなった後に睦雄が家督を相続する筈でした。しかしまだ幼年である事とロウガイスジの家系である事から、食べるのに困らない程度の田畑、山林を相続するに留まり、家督は他の親族が相続しました。
 
 睦雄は後見人となった祖母、そして姉と共に倉見を離れる事になります。最初は加茂の中心部である塔頭、後に祖母の故郷である貝尾へと移住します。

級長を務める秀才からの転落


 貝尾に移住した睦雄はやがて小学校に進学します。後に恋焦がれ、事件勃発の原因の一端となった女性はこの時の同級生です。
 入学は本来より一年遅らせています。これは3月の早生まれである為の措置です。

 学生時代は欠席日数が多いものの、学業に関しては優秀な成績を収めています。級長にも選ばれている事から、周囲からの信任も厚かったことが伺えます。
 尋常高等小学校の卒業に際しては教師から進学を勧められています。しかし祖母がこれを良しとせず、進学は断念されそのまま家に留まりました。

 卒業直後に肋膜炎を患い療養生活を過ごします。この頃から優等生だった睦雄の様子が変わってきます。
 快復後に実業補習学校という進学しない人向けの教育機関に通い始めますが、学業に身が入らなくなっており、徐々に通わなくなったようです。
 旧制中学校卒業を認定する専検(現在の高卒認定試験)の勉強もしていたようですが、これも実を結ぶことなく断念。段々と無作為な日々を送るようになりました。
 

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写真:現在の貝尾地区の中心部
写真撮影:岡山の街角から


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