新聞報道に見る津山事件
第一報
このページでは、昭和13年(1938年)に発生した津山事件に関する新聞報道を紹介します。事件発生当時、新聞各紙がこの未曽有の惨劇をどのように報じたのか、その内容を詳細に見ていきましょう。
合同新聞(山陽新聞)が報じた津山事件の第一報:阿修羅の如き凶行
まず、合同新聞(現在の山陽新聞)が事件直後に報じた第一報です。第一報は事件の凄まじさと被害の大きさを強烈な言葉で伝えています。死亡者数は28名、重傷者は2名と報じられています。これは、先の記事「津山事件 殺人の詳細」で触れたように、受傷後に亡くなった被害者の数が時間差で反映されたものと考えられます。九連発の新式猟銃と猪狩り用の銃弾百発を用意して阿修羅のごとく暴れまわり、付近村民二十八名を射殺、二名に重症を、一名に軽症を負わしてそのまま付近の山林へ逃げ込み、平和な山境をたちまち恐怖のどんどこに突き落とした戦りつすべき一大惨劇―
(合同新聞1938年5月22日)
合同新聞の第一報では、既に犯人である都井睦雄が祖母の首を斧で斬殺したことや、電柱に細工をして停電を引き起こしたことも報じられています。当時の通信状況を考慮すると、事件の初期段階でこれほど正確な情報が収集されていたことに驚かされます。
大阪朝日新聞岡山版の報道:肺患、結婚難、神経衰弱…動機への言及
一方、大阪朝日新聞岡山版は、津山事件について次のように報じました。肺患と結婚難、かてゝ加へて過度な勉強からきた極度の神経衰弱にすっかり歪められた厭世厭人的な絶望感から僅か廿二歳の青年都井睦雄によってなんと驚くなかれ廿九名といふ我が国近世における記録的殺人の一大悲劇が繰りひろげられ(以下略)
(大阪朝日新聞岡山版1938年5月22日)
こちらの第一報では、死亡者数が29名とされています。また、事件発生の初期段階で、犯人の動機についても触れられています。報道によると、都井睦雄の動機は、肺病、恋愛問題(結婚難)、そして過度な勉強による神経衰弱とされています。
この「勉強による神経衰弱」については、後の調査報告書などでは明確な記録がなく、事件直後の混乱の中で流れた情報である可能性が考えられます。
興味深いのは、この後の報道でも、都井睦雄が小学校時代に秀才であったという点が繰り返し強調されていることです。当時のマスコミが「秀才が起こした津山事件」というキーワードに強い関心を持っていた様子がうかがえます。
新聞報道に見る事件後の様子
津山事件後、新聞報道は事件の余波や集落の様子についても伝えています。ここでは、事件後の貝尾集落や遺族の状況がわかる報道をいくつか紹介します。
犠牲者の合同葬:異例の早さと背景にあった遺族の心情
津山事件の犠牲者の葬儀は合同葬で執り行われました。死亡した村民と、犯人である都井睦雄、そして彼の祖母の分を合わせた31個の棺が、白木で急遽用意され、貝尾集落に送られました。ただし、都井睦雄と祖母の2名は、合同葬での弔いは許されず、棺の支給のみが行われたようです。
葬儀の日程は、通夜が5月22日、葬儀が5月23日でした。22日が友引であったことが、この日程決定の理由とされています。
現在では、死亡した翌日が通夜、翌々日が火葬という流れが一般的ですが、死後24時間以内の遺体の埋火葬を禁じる墓地埋葬法第3条が制定されたのは、津山事件後の1948年です。
当時の法律では事件翌日の葬儀も可能でした。
新聞報道でわざわざこの点に触れているのは、当時の遺族が、一刻も早く犠牲者の葬儀と埋葬を行いたいという強い意向を持っていたことを示唆しているのかもしれません。
戦時下の悲劇:「悲劇の勇士」として報じられた遺族の言葉
また津山事件が起きたのは戦時中という時代背景もあり、兵役で家を離れていて難を逃れた遺族が「悲劇の勇士」として新聞に取り上げられています。この青年は、本家と分家で合わせて7名の親族を亡くしており、合同葬のために急遽帰郷しました。彼は新聞に対し次のようなコメントを残しています。
この言葉は当時の「御奉公」を第一とする社会情勢を反映していると言えるでしょう。このコメントの全てが青年の本心であるかは定かではありませんが、事件直後の遺族の貴重な記録です。一まづは帰って来ましたが時は寸刻も油断の出来ない非常時です 私事に関はって御奉公をおろそかにしてはなりません。母兄弟の葬ひをすませたりへは一日も早く帰って軍務に服したいと思ってゐます
(合同新聞1938年5月23日)
動機に関する報道の変遷:恋愛問題、肺病、そして精神的な要因
津山事件の動機については、第一報で報じられた恋愛問題や肺病といった点は、現代の事件分析と共通しています。
しかし、合同新聞の記事では、都井睦雄の肺病の信憑性を疑う報道も見られました。記事によると、彼は幼少期に両親を肺病で亡くしたことを知り、自身も肺病であると思い込んでいた可能性があるとされています。
徴兵検査の際、都井睦雄は自身が肺病であることを申告しましたが、検査官は簡単な検査で彼を丙種合格(事実上の不合格)としました。
恐らくこれは肺病を自称するリスクのある人間を採用して後々のトラブルになる事を避けたものと考えられます。
これはあくまで推測ですが、検査官は肺病を自称する青年を徴兵することで感染が広がることを懸念し、深く調べずに不合格としたのかもしれません。
しかし、都井睦雄はこれを「簡単に調べただけでもわかる肺病に違いない」と捉え、厭世的な思想を深めていったとする内容が新聞に掲載されていました。

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写真:夜空
写真撮影:写真AC

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