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現在の貝尾集落の様子

現場や生家跡の現在の様子

現在の貝尾集落


 ページ冒頭の写真が現在の貝尾集落の様子です。
 人口は2020年の統計で12世帯29人です。人口の内14名が65歳以上で高齢化率は約50%、2020年の時点で限界集落の定義に当てはまるかギリギリの数字になっています。

 ただし人が住んでいる地区は貝尾の一角のみです。
 地図上でも一ページ上で確認できる範囲に住宅が集中しています。


 このエリア内で29人なので、実際に訪れた感じだと意外と人の姿を見かけるというのが正直な感想です。
 挨拶をすれば気持ちのいい挨拶が返ってきますし、山奥の普通の集落です。もちろんよそ者が特に観光資源の無い場所を歩いているわけですから、「事件の事で来たんだろうな」と思われているのは間違いないでしょう。
 しかしだからと言って排他的に扱われる、あしらわれるといった事はありません。

貝尾公会堂

 貝尾を訪れる人がナビに設定する事が多いであろう貝尾公会堂です。
 季節の花が植えられ、とても綺麗に整備されています。ここに訪れた瞬間に、津山事件が起こった現場というおどろおどろしい幻想が吹き飛ばされました。
 事件から数十年の時が流れ、貝尾に事件を思わせるようなものはありません。

貝尾集落の空き家

 幾つかの空き家も散見されますが、これは山間部の集落ではごく普通の風景です。
 人口の流出に事件が影響している部分もあるのでしょうが、貝尾の位置と現在の人口を考慮すると、特別に大きく作用しているようには思いません。
 農業のように家と仕事場が密接な場合、生活の為に離れられないという事情もあったようです。事件などで生活の場を離れるというのは、転職市場が熟成した現代でこそ生まれる発想なのかもしれません。

貝尾

 貝尾の中心部と思われる辺り。この辺りに住宅が集中しています。
 家は新しくなっているものの、恐らく睦雄が見た風景と大きくは異なっていないでしょう。長閑な風景の中、殺人計画を胸に抱いた彼にこの景色はどのように映っていたのでしょう。

怪しい!? 集落入り口の石碑


 ネット上で津山事件に関する感想、考察も幾つか読みました。
 その中で興味深い話題を見つけたので少し触れておきましょう。

貝尾集落入り口

 貝尾集落の住宅が立ち並び始める辺り、集落の入り口の辺りに設置されているこちらの石碑です。
 何か事件に関係する慰霊碑のようなものではないかと勘繰る人もいるようです。

 これは地神と呼ばれるものです。県民にとっては前述のような勘繰りは不思議に感じてしまうほどありふれた存在です。日本で多く見られるのは岡山県の他に瀬戸内地方、そして神奈川県とされています。
 なので他の地区の人には馴染みがなかったのでしょう。

 地神はその土地をつかさどる神であり、農業の神であったり道祖神のように集落へ悪い物が入るのを防ぐ目的で設置される事もあるようです。

 設置されるようになったのは元禄時代頃とされ、大正時代には新規の設置例は少なくなっていたようです。なのでこの地神は津山事件に関連するものではなく、寧ろ津山事件が起きた時には既に設置されていたものである可能性が高いです。
 犯人の都井睦雄もこの地神を見ていたのかもしれません。

都井睦雄の生家跡


 最後に都井睦雄の生家跡について紹介します。
 貝尾集落にあった睦雄の家は事件後に売却され、建物は早い時期に失われました。津山事件報告書では手続きをしたであろう姉の発言が記録されており、50円で売却し、そのお金は睦雄が借金をしていた相手に支払われたそうです。
 しかし生まれてから幼少期の僅かな期間を過ごした倉見にあった生家は2015年ごろまで残されていました。
 Googleマップのストリートビュー機能に当時の画像が残されているのでご紹介します。

 これが都井睦雄が生まれ、3歳まで住んでいた家です。
 取り壊される前年の2014年の貴重な画像です。
 詳しくは都井睦雄の半生1の記事で紹介していますが、 両親を相次いで肺の病気で亡くした為に結核者が出る家系「ロウガイスジ」として睦雄は家督相続から外され、他の親族が相続する事になりました。
 そして祖母が後見人となり、塔頭へ移住、後に貝尾で暮らすようになりました。



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目 次

写真:睦雄の家の近くにある地蔵
写真撮影:岡山の街角から


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